大分前の昭和47年4月の江鷹会誌に、前田教官が二等駆逐艦呉竹に中尉で乗組み、荒天の
東支那海を行動中の昭和7年12月、僚艦早蕨が転覆した時の模様を寄稿されている。
当時海軍当局はこの事故は操艦の不良によるもの、として格別な措置はとられなかった。
ところが2年後の昭和9年3月に竣工直後の水雷艇友鶴が、荒天の海で転覆する事故が再度
発生した。
今度は小艦艇のみならず全艦種の復元性を調査して、建造中でも改造するという徹底した対策
が大規模に施行されたという経過があった。
そして友鶴の復元性調査の時に早蕨についても調査した結果は、友鶴と同じ位不良であった
という造船サイドの報告資料が、戦後保存されていたことがわかった。
友鶴の操艦は最善を尽くしたという用兵サイドの証言を、「海軍水雷史」に僚艦真鶴の篠原艇長
(兵48期)が寄稿されており、早蕨の場合の前田教官の寄稿もそれに当たると思われる。
早蕨の遭難海域に程近い尖閣諸島沖の波高し。
海軍の造艦技術を継承して復元性に万全を期した海自護衛艦に対して、繰り返し遊弋を続ける
某国艦艇の復元性は如何に。
二等駆逐艦早蕨
水雷艇友鶴同型艦真鶴(改装後)